~どうして、内心を正直に言えない人がいるのだろう?~
三井高利が三井越後屋(三越)を開業し、「現金掛け値なし」のフレーズを宣伝して商業範囲を広めたのは、1673年、江戸時代のことであった。
掛け値とは、この時代の代金支払い方法は、「後払い」が基本であったため、当然、債務不履行になるケースがある。
そのための保険として、元々高い値段を設定しておく商業慣習があった。
ところが、三井高利は「定価」という概念をアジアで初めて導入し、誰もが等しく同じ値段で購入できる、という斬新なシステムを考案した。
これは、西欧人社会が「定価」という概念を発見するのに、およそ100年は先駆けていた。
「定価」とは何か?
それは、「客のため」に商品が存在することを意味する。従って、アフリカ、中近東、日本以外のアジアにおいては、西欧式の法律を強制しなければ、「定価」という概念は存在しない。
西欧における「定価」の発生原理は、プロテスタンティズムを理由とする。
プロテスタンティズムの中のカルバン派は、聖書の絶対性を主張した。そして、聖書に含まれる「隣人愛」を実現する者こそが、魂の救済があると定義した。
そうすると、例えば「利潤」というのは悪徳とされる。甘いお菓子やおいしいお酒の類も、「怠けている」と判断され、取締の対象となった。
ところが、誰かがこう考えた。
「自分のために消費するから悪徳なのであって、隣人のためにあるのならば隣人愛では?」
つまり、甘いお菓子や綺麗な洋服も、自分のためにあるからこそ悪徳なのであって、他人のためにあるのならば、それは聖書の実現であると考えたのだ。
あなたが綺麗なお洋服を着るのは、自己顕示欲のためではない。美しい姿を他人に見せれば、他人のためになるからだ。
あなたが甘くて美味しいお菓子を用意するのは、あなたが食べるためではない。お客としてきた隣人に食べてもらうためだ。
そして、隣人が一人で食べてもお菓子はおいしくない。あなたと一緒に食べることが隣人にとっても、お菓子のおいしさをひきたてるので、あなたも隣人のために甘くて美味しいお菓子を食べるのだ。
もしあなたが商人なら、お金を得るために商売をしてはいけない。あなたの持つ商品が、隣人の役に立つ、隣人の求めに応じる価値があるのならば、それを隣人に提供しなさい。
けれども、「タダ」であなたの商品を隣人に配布したら、配布できる数は限られている。隣人愛はより広範囲、より継続的に、より多数に行えば行うほど、無限の「隣人愛」こそが聖書の実現である。
従って、あなたはより多くの隣人にサービスを提供するための「費用」として、商品提供時に代金を得ることが出来る。
より多くの隣人にサービスするためには、「運営」をしなければならない。
その運営をするために最低限必要な経費を商品に求めることが出来る。
「定価」だ。
定価とは、より多くの隣人にサービスするために最低限必要な価格だ。
隣人愛が存在しない地域では、定価は無い。
「飢えている人にはより高い値段で売りつけ、不必要とおもっている人には安く売りつける」のが、有色人種の一般的商慣習だ。
また、代金から貴方は、食事をとることができる。
あなたは食事をとらなければ死んでしまうからだ。あなたは隣人愛を実現するために、食事をとって健康状態を維持しなければならない。
あなたの精神的健康を維持するためにあなたはリクリエーションをしなければならない。休息をとる必要もある。
全ては「隣人愛のため」という目的のため、あなたという命が存在する。
こうして、近代資本主義が生じたことは、誰もが知るところである。マックス・ウェーバー著 大塚訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
近代税法も、この精神にならっている。
つまり、あなたが「一人で自分のため」に消費をするのならば、税を与える。消費税だ。
しかし、あなたが他人のために消費したものについては、税を課さない。
一人でディズニーランドにいけば消費税をとられる。しかし、会社の福利厚生で、「労働意欲を高めるための慰安旅行として」ディズニーランドにいったならば、国家はあなたから消費税をとらない。
定価とは、人類の愛によって、生じている。
従って、人類である「ホモサピエンス」が住んでいる地域は定価があるが、その他のホミニド(原人)が住んでいる地域には、定価という概念はない。
さて、前置きは終わり、今から本題に入ります。
相手が弱いと思えばつけこんでくるし、相手が渇望していると思えばより搾取してやろうとするのが、彼らホミニドの基本だ。
人間社会では「欲しい」といえばかなえられる。欲しいというのは渇望であり足り無さであり、弱さだからだ。
しかし、動物の世界では「欲しい」といえば、弱さを示し、攻撃と更なる搾取の対象となる。
だから、動物の世界に放り込まれた人間は、決して「欲しい」と
言わない。本当に困っていたとしても、決して弱さを見せない。
「更に攻撃される」という現実を経験則で知っているからだ。
近年、「ツンデレ」という言葉がある。
ツンデレとは内心を素直に言えない状態を汎称する。
何故素直に言えないのか?
「エイプ」の父親に育てられた女性は、男性に対して内心を素直に言えば「殺される」「害される」という危機意識をもっている。
だから、言わない。
内心を絶対にいわず、隠したり、騙したり、偽装したりする。
好きでも嫌い。
欲しくても欲しくない。
アジア人から定価のない商品を買うとき、欲しそうにすると値段を高くされるからわざと貶して欲しくなさそうに振る舞い、本当は大好きなのに大嫌いであるかのように振る舞うことで、「商品を得る」ように。
助けて欲しいのに、助けて欲しくないといったり。
弱いのに強がったり。(チンパンジー世界では傷があることを隠す。傷があることがばれるとそこを攻撃されるため)
だから、人間社会に来たとき、順応できなくなってしまう。
「私は欲しくない」
「あ、そうなんだ」
人間社会では言葉を言葉通りにとってしまうから。
「愛している」「私も」「君を抱きたい」「私も抱かれたい」
こういったストレートな会話が出来るのは人間社会だけで、「欲しい」=「弱さ、足り無さ」を示したら攻撃される動物世界では、決して内心はあらわにされない。隠される。
「愛している」「愛していません」(けど目を閉じて唇を差し出す)
「君を抱きたい」「触らないでください!」(けど足はラブホテル方向にてくてく歩いている)
ツンデレとは「狼少女」ならぬ「猿少女」なのだ。
具体的には、長頭または過短頭絶壁の男に育てられた女である。
父親の頭骨をみてみよう。
ネアンデルタール人やホモエレクトスと「同じ頭骨」をしていないだろうか?
2009年現在、遺伝子調査で、アジア人に含まれる「人間」の数は大変少ないことが判明している。
Y染色体がエイプで、X染色体が人間だった場合、悲劇は起きる。